昭和四十九年二月一日 秋山ナセ四十年祭におけるご挨拶


 今日は良い霊様のお祭をなさいまして、みなさん有難うございます。今日こうしてお揃いになっておる親戚の方は、今日の霊様のどういうふうに、息子嫁になられるでしょうあなたは、あなたは孫になるわけでしょう。光橋先生は孫になるわけ。この方も孫になりなさるお方。ほんなら、光橋先生らといとこ。そんならあなたの兄弟じゃなかと。こちらは息子の嫁になる。このお婆ちゃんも、この人も息子の嫁になる。そうですか。そいうように身近な方たちばかりですね。今日のお祭りが出来て、本当にびっくりしなさいましたでしょうと思うですね。皆さんが揃うてから、今日のお祭を受けられるなんて思うてもおらなったような感じですね。
 この頃から私は、教主様のお歌に申しておりますように、[成すといえ 成し得る条件 恩恵の なくば成し得ず何一つとして]と言うね、はあ本当、今日はもう親の例えば何年になるてい、何十年になるていと思うても、思うただけでは出来ませんしね。思うて、そしてこれがなら出来るだけの条件というものがあるから出来たわけですね。その条件にピタッとかたったから、これだけのことが出来たんです。成そうと思うておってもいくら、ならご恩恵を受けな
ければ、神様のおかげを受けなければ何一つとして出来んのですけども、その神様のおかげも、おかげを受ける条件という受け物がなからなければね、出来んのです。
 神様がもうとにかく「おかげというものは降るようにあっておる」とおっしゃるです。しかも「世界中の氏子にやっておる」とおっしゃる。けれども、「氏子の受け物がなからなければ、氏子に信がなければ仕方がない」と。もう雨の降るように神様はおかげ下さってるんです。それを受け物が出来ると、受け物、例えば、私が、二十数年前だったら神様がどんなにおかげ下さっとっても、食べるに食がない。着るのに着物がないというような状態だった。あるだけで受け切らなかった。
 そこでなら、一生懸命修行さして頂いて、受け物が出来たら、今本当に成程私が、神様はうそをおっしゃらんなあ、もう必要なものが必要に応じて、もうなんぼでも限りなく頂けるということを、私は毎日体験さしてもらいます。その私が体験さしてもらいよるとを皆さんに聞いて頂いておるのが日々の御理解だと私は思うんです。私があれが欲しいこれが欲しいと言わなくてもね、もう本当に確かにおかげというものは天地の恩恵というものはもう限りなくあっておる。どなたの上にでも、誰の上にでも。それを我情我欲でこうしようとするところに、入ったり入らなかったり、良かったり悪かったりという結果になってくるんですね。
 そういう意味で、例えば神様がその恩恵というものは、あっておるけれども、その条件が足らわなければ、今日のお祭でも仕えられない。鯛一匹お供えすると思たっちゃ、金が無からな出来んもん。勿論思いがなからなければ出来ない。はあ饅頭が好きやったけんて
、お饅頭いっちょお供えしようと思うてもです。それこそお饅頭一つ買える金がなからな出来るこっちゃなか。
 今日は、私は、有難いと思ったことは、御神前に出らして頂いたらもうそれはもう、本当にもう【 】玉露入りのね、お湯を冷まして、玉露はもうそれこそ口にたるような味わいの物ですね、あの玉露の味というのは。あの玉露を入れてね、こう霊前に出すところを頂いたんですよ。これに何か、甘いものが一つあったらなと思いよったらね、横からちゃんと、何時もの時の準備にね、これ私の方がそうですけれども、羊羹なんかちゃんと取ってある。何時玉露なんかをお出しするお客さんがあるかもしれんから、その時のために羊羹が取ってある。だから、走って買いに行かんでもちゃんと玉露を出せる。これはなら光橋先生やら、秋山さん辺りの、日頃の信心がね、次に紙を敷いてから、羊羹を切って、お茶の後に出すところを頂いたんです。今日のお祭は、言うなら玉露のような、玉露とはいうならば玉の露と言う。
 言うなら、孫ですはねあなたにとっては、ですから、あなたが二十一の時ですかね。亡くなられたの。と言うことになるからね。四十年じゃろ今日。あんたが六十一じゃろうが。二十一の時に亡くなっておられるわけなんだけれども、もう普通、孫がね、しかも分家ですからね。言うならば、言うなら光橋先生ところの今の何ですかね。こちらがご先祖なの。こちらが一番上なの。どうしてやそれ。かかっちゃったというわけ。そうですか。そんならこちら辺りが中心となって、今日のはもっともっと、お祖父さんの四十年と言やあね、もう大変な年柄だから、ほんならもっともっと親戚中、付き合い中でもね、お呼びしてからでも、もっともっと賑やかにです。

 今日でも、私は楽、【  】おるから出来たけれども、でなかったら出来なかったんです。けれども、賑やかにするということだけは、能ではありませんよ。そりゃ思いを込め、今日の玉露のようなもの、玉の露、心、「玉」ということは心ということ。玉の緒の切れたという、玉ということは心ということ。しかも露ですね。お恵みということ。お恵みを受けて、その真心を、ささやかではあるけれども、真心でどうかという、どうかしてというのがこのお祭り、だからこれが秋山家の中心を捉えておられる。こちらがなら、本当な信心が出来てね、さあ何時何時の何日には、こうやってご先祖のお祭をしますよ。先祖の何十年祭をしますよ。というようなことで、もっともっと大きな大規模でね、仕えられるということになってくりゃ、縦ではなくて、秋山家が横に栄えるとおっしゃる。今日の御理解。けれどもこれは、これを仕えた、この上に私が上げた玉串がそうです。これだけは芯がシャンと伸びておる。ところが横に行っとるとは、プツッと切れとる。横に栄えるようなおかげを頂き、横にも縦にも栄えるようなおかげを頂くためには、その先祖を取っておる人が中心になってさしてもらって、言うならば、親戚中が相集まって、子も孫も曾孫も集まってです。そしてこのお祭りをするようになるとね、こげなふうに横に栄えて行く。秋山の家、秋山家がこう栄えてくる。
 けれども今日のお祭は、上の方やね、玉露を以てする人たちの、心の上に現われなさるというお祭。だから、はあ本当にまあ一押し、まあ何かが足りなかったなというお祭です。思いはあった。玉露のような素晴らしい味わいのお祭ではあった。けれども何か一つ足りなかった。甘いものが足りなかった。これは子供やら孫や他の者
が信心のしの字も分からん者は判るはずはないけれども、それでもやはり、その先祖の今日は霊様のお祭でなからと言うて、相集まって、このお祭りを拝むようになって来るということが、その甘いものではあるけれどもね、それはそれが言うならば今日のお茶請けになるようになったら、素晴らしかった。けれどもここはまあ有難いことに、日頃の信心でね、とっておきの羊羹があったから、まあおかげで玉露もおいしかったね。羊羹のおかげで一段と玉露の味も出たというような感じのお祭でした。けれどもようもこれだけね、皆さん、今どちらへいられるんですか。
 そうですか。しかし本当にありがたいですね。何とはなしにさい、ほんならその思いとか真心というものがね、いかに神様に通うかということ。勿論神様に通うから、霊様にも通う訳なんですけれども。霊様としてはね、言うならどういうことでしょうかねえ。まあ霊様の中で私が知るかぎりのことを言うと、やっぱ人間と同じことだ。ピンからキリまであるです。大名暮らしのような暮らしをしてる人があるかと思うとね、さあ帯をしたいけども、帯もないけん、縄帯のしとりなさるという人もある。便所に行きたいけども、便所に行かれんという人もある。そういう苦しみをしとる人もある。
 もう本当に、ところがね、こういうその霊祭とか、ならご法事なんかと致しましょ。そういう時だけには子孫の者が実はお婆ちゃんの何年という時だけには、子孫の者が、「実はお祖母ちゃんの何年じゃから、何十年祭だから」と言うて思いを込めてするでしょう。それを、ならこの天地の親神様ですたいね。の、お許しを頂くということは、まあ判りやすく言うなら、監獄なら監獄に入って、窮屈な思いをしよる訳です。何月何日は親族のもんが集まってお前に面
会にくるぞということになりゃあですね、やはりさっぱりとしたものを着せてもろうたり、自由を許されてです。そういう窮屈な中から出てきてから、皆に面接して、はあほんに私の好きなものが、日頃は食べられないようなものや飲めれないようなものまでね、用意してあると喜ぶくらいな、これは例えて言いよるとですよ。判りやすく言うと。そういうおかげの受けられるのが、この人間の世界と、魂の世界とを結ぶというのは、真心で結ばれるとね、例えば、なら、地獄に行っとる霊でも、天地の親神様のお許しを頂いて出てくることが出来るということ。お宅の霊様が地獄へ行ったということではないですよ。けれどもね、そういう例えば窮屈な、そうでしょうが、人間でも金のない人やらは窮屈な生活してるわけなんです。それを食べたいけども、てんで米蔵を持っとるばってん、例えば胃癌なら胃癌で一粒の米が喉に入らんというのは、もうない人も同じでしょう。そういう暮らしをしておる人が、人間の世界にもあるように、霊の世界にもある。
 そこで私共が、ならこの世にある時に、「信心の喜びを頂いてとけ」、「魂を本気で清めた上にも清めとけ」というのが、金光様の御信心だと思うんです。清めた上にも、人間がある。我情がある。我欲がある。根性悪いことを言うたりしたりする。けれどもその根性悪いことを言うたりしたりせんで済むような、何時も有難くで受けられるような、何時も有難いことであると喜べる心をね、これは魂が研かれなければそう出来ん。だからその魂を、私共はこの世にあるうちに、研かしてもろうて、どこから湧いてくるか分からんような喜びを感じて、だからもう行く先は地獄の果てか極楽か分からんけれども、喜びだけは持って行きたいと言うのが信心なんだ。そ
の信心の喜びだけはどこに行くでも持って行きたい。そこにね、日頃信心の稽古をさせて頂いとるけん、どこにどうと溜まっておるというようなことはないけども、さあいよいよという時にはもう絶対おかげを頂いておるですね。
 これは、光橋先生の場合でも、秋山さんもういよいよという時には、言うなら玉露はあったばってん、おかずがなかというと、ちょっと水屋あけたら羊羹のとっておきがあったというちゅうごたるふうでね、ようなお繰り合わせの中におかげを頂いて、信心の喜びというものはどうでも受けたい。もう本当にどこへ行くでも持って行きたい。そんな気が致しますですね。
 今日はね、そういう感じのお祭でした。何かが足りない。そんな感じでした。私共もなんかこう、何か妙なものを感じたです。お祭を仕えておりましたけれども、仕えておるうちに、何とはなしにこう、何と言うですかね。皆さんの真心に引きずり込まれて行くといったような感じで、今日のお祭を仕えさせて頂いて、最後に、玉露のような味わいのものを霊様に差し上げれたということを、特に霊様のお祭はね、思いを込めてしなきゃならんなというようなことを感じたんですけれどもね。だからこれが上に、こう縦につながって行くと言うおかげではなくて、それが横にもつながって行くようなね、おかげにも一つ、どうでも秋山家は大体金光様に大変縁が深いのですからね。ですからあなた方も、こう、こういうようなお祭を境に、一つ信心が出来られると、しと本当大先祖のおかげであの時を境にまた新たな信心がね、芽生えて、少しでも魂を清めることに精進したということになるようなおかげを頂いたら、有難いと思うんですね。

どうぞ。